いつものように、雪斎に呼ばれて部屋に行くと、すでに部屋には客人がいた。客人、といってもまだ元服したばかりの初々しい少年だった。
「ああ、、こちらに座りなさい」
私は言われたとおりに部屋に入り、下座に座った。どうみても侍の子供である少年のほうが身分が高かったので、私は彼のさらに下座に座った。
「以前から、紹介しようと思っていたのだ。元康殿、こちらが以前から話していただ」
雪斎は、こんな年端も行かない少年になにを話したんだろう。ん? ……元康? えーと、それって、もしかして後の徳川家康?!
「かねがね、噂は聞いておる。そなたはおなごの癖によく知恵が回るそうじゃな。是非、その知恵、三河衆のわれらにもお聞かせ願いたい」
まだ、ほんの子供なのに大人のような話方をしている。これが、良家の坊ちゃんというやつだろうか。
「お初におめもじいたします。にございます。勇名をはす、三河衆の皆様に私のような若輩者がお役に立てるとは思えませぬ」
私の言い方、あってるのかな?
「元康殿は、物覚えが非常によく将来は大人物になるだろうと、考えておるのだ」
「雪斎様が認められるほどのお方なのですね」
確かに、私はこの元康が将来「徳川家康」となって天下人になったことを知っている。だから、大人物になると分かるけれど、雪斎はこんな子供の頃の家康を見て、才能を感じたのか。人を見る目がある、というのはこういうことを言うのだろうか。
突然、雪斎はひどく苦しそうに咳き込んだ。私も、元康も慌てて駆け寄る。元康が雪斎の背中をさすっているが一行に咳が収まりそうにない。どうやら酷い咳が引き金になって発作が起きてしまっているみたいだ。
私は、すぐに廊下に出て近くにいるであろう人に叫んだ。
「誰か、誰かおりませぬか! 雪斎様がひどく苦しんでおられる!」
私は元康に断って、飲み水をもらうために厨へと走った。井戸で汲んだ水を溜めてある樽から、ひしゃくで水をすくい近くにあった湯飲みにいれて、また元来た廊下を駆けた。
私の先ほどの呼びかけで、誰かが薬師を呼んでくれた様だ。
彼は、風邪と診断されたようだったけれど、雪斎の病状は誰の目に見ても重病であることが明らかであった。私のいた時代で薬が手に入れば治るだろうけれど、私の知識では彼を治すことはできない。私は、ここで彼の病状を見守っている人たちとなんら変わることのない力のない人間なのだ。
この世界に迷い込んで、自分は何でもできると思っていたけれど、結局私は、無力でなにもできないことに等しい。
雪斎が酷く咳き込んでから、彼の容態はぐっと悪くなったようであれ以来寝付いてしまった。たまに具合の良い日は呼ばれて、いつものように話をする。さすがに、遺言じみた話題が多くなってきて、そのことが私にどうしようもない空しさを覚えさせる。
「本当は、私は……貴女に伊達などやめて今川に仕えてほしいのですよ」
雪斎は、布団の上に起き上がって庭の景色を見ながら私に言った。
「私は……!」
伊達ではない、と言おうとして雪斎に目だけで制された。
「知っています。繕わなくてもいいのです。貴女が伊達に惹かれ、それでも奥州に戻れないことを知っています」
雪斎は、あえて「伊達」といった。私は伊達政宗も好きだけれど、あの奥州にいた人たちも好きなのだ。だから、雪斎は特定の人物の名をあげないのだろう。
「こんな、未来予想図を描いていたのです。私が隠居し、貴女と元康殿がお館様を補佐し、戦のない日の本を治める世界を。私は、それをこの館の縁側でお茶でも飲みながらじっくりと見ている。……そんな他愛のない夢です」
「雪斎様……」
私は、そんな未来を夢見たことはなかった。天下はあの人の手に、とずっと思っていた。
「もう少し、はやくお会いできていればよかったですね。そうすれば、貴女を今川に落とすことなんて造作もないことだったのに」
もし、なんて単なる作り事でしかない。でも、私がこの世界で助けられたのが今川家だったら、……雪斎に助けられていたら、私はこの人と共に、今川義元が天下を取るのを手助けしたのだろうか。
「殿、貴女には私の持っている知識のいくらかをお伝えしました。後悔しない道を進みなさい」
それから、しばらく経って雪斎は亡くなった。私は、初めて身近にいた人の死を経験して驚きのあまり涙すらでなかった。ただ、ただ呆然と雪斎の葬儀に参列し、そのままぼんやりと今川家の下働きとして毎日を送っていた。
「これは、殿、またお会いできるとはおもわなんだ」
また、山本勘助が武田信玄の使いとかで今川の館にやってきた。
「お久しぶりにございます。山本様」
この人は、よくよく忙しい時期にやってくると見える。今川では、国境を織田信長と争っている最中だ。すぐにでも出陣といった館中がぴりぴりしている時期にやってくるだなんて、すごい度胸だ。
例によって、義元に話があるようで、朝から余計に義元はぴりぴりとしている。私が控えの間で休んでいる山本勘助にお茶を持っていこうとすると、ひょっこり彼はやってきて私にこっそり耳打ちした。
「今日は、隣室で気配を消して忍んでおれ。奴の話を聞き漏らすな」
そういうことは、今までは別の人がやっていたのだけれど、どういう風の吹き回しか、それとも雪斎に遺言でも言われたのか、重要な役目を私に命じて部屋に入っていった。
私は、何食わぬ顔で山本勘助にお茶を出して、言われたとおりに会見の場のすぐ隣にある部屋に入り、隣の部屋のふすまのすぐ近くに座った。
山本勘助の用事、というのは今度の今川と織田信長との戦のことで、「武田が心配している」ということと、「助言をしに来た」ということのようだ。ただ、この助言は悪意があるようにしか思えない。もともと、今川義元という人は、山本勘助が気に食わない。彼が親切めいて助言したところで、義元の気を逆なでるだけで悪いほうへしか進まない。
今だって、義元は激昂して「織田の本拠地を攻めさせて、駿河の領地を空けさせようという作戦には乗らん!」とか言ってるし。
勘助はしれっとした口調で、途中で陣を張るならどこそこがダメで、どこそこが良いとか言っている。なんだかこっちの胃が痛くなりそうな会見だ。
「そなたの助言はいらぬ! われらは、桶狭間で陣を構える。周囲の城を落としていくならそれしかあるまい」
桶狭間……!
まさか、あの有名な戦に私は立ち会おうとしているの?
勘助はようやく重い腰を上げて、今川の館を後にすることに決めたようだ。私は、彼が帰ってから、機嫌の悪そうな今川義元を呼び止めた。
もう、いい。私は決めた。
この世界で、織田信長がどんな人か知らないし、織田の陣営にどんな人がいるかもしらない。私が知っているのは、高飛車で短気で、それでもこの国を何とか治めようと考えている今川義元だ。私は、今川家の人や、ここに仕える人たちに情けを受け生きている。血が通い、情を交わした。私に優しくしてくれる人たちは、今川義元をただ一人の主君と仰ぎ、彼の元で平和に生きることを望んでいる。桶狭間で彼が殺されるのをみすみす見ていることなんて、私にはできないのだ。
「お館様、無礼を承知で申し上げます。桶狭間では陣を張らないようにお願い申し上げます」
「そなたも、あの勘助と同じことを申すか!」
あちゃ、地雷踏んだ。
「勘助殿がどのようなことを申されたか、私は存じ上げませぬ! ただ、谷間は狭く細長きところ。お館様のご命令がすみずみまで届きませぬ。誰しもが、お館様のご命令を待っているときに届かないのは不利です」
私は、両膝、両手を廊下について今側義元を見上げている。すると、義元は優雅に手にしていた扇を口元に持っていきくすくすと笑った。
「ああ、おかしい。そなたもそんな勘違いをするとはな。桶狭間は有名な谷間なれど、桶狭間山という山が、近くにあるのだ……わしは、そこに陣を張る。あの勘助も谷間に陣を張るとおもっているようであったがな」
私は、驚いてくちをぽかんとあけた。山に陣を張るのは定石だ。高いところのほうが周囲が見渡せるし攻められたときの対処もしやすい。
戦上手、と雪斎が言っていたのだから、この人がそんな単純な間違いをするわけがない。
「わしを誰と思うておる? 東海道一の弓取りぞ」
自信にあふれた言い方に、私はかっこいいと思った。恋愛感情とかいうのではなくて、人間としてその生き様をかっこいいと思った。
「、今度の戦にはついてこい。そなたは完全に今川ではないが、織田との戦いの時にはわしの味方であろうからな」
私は、ぎくりとし、身をわずかに振るわせた。彼は、私のすべてを見透かして高笑いをしながら去っていった。