弦月の向こうに

星が墜ちた夜

 私は、今川義元の屋敷に住むことになった。下働きも同然で、屋敷の主である今川義元に会うことなんて滅多になかった。雪斎は義元の家に来ることが多く、よく話し相手として部屋に召しだされることはあった。しばらくして気がついたのだけれど、雪斎はこの時代で手に入る書物のほとんどを読んでいるみたいで、会話の中ですらすらと漢詩を引用したり、兵法書の引用をしたりと記憶力が良い。そんな知識人が私と話していて楽しいのか不思議に思ったのだけれど、雪斎いわく、「単純な物言いの中に真理をついていて目を見張ることがある」のだそうで話し相手の役目は十分にできているのだそうだ。
 今日も、雪斎に呼ばれて部屋で話をしていると、ふと思い出したかのように雪斎が言った。
「今日は、そなたの故郷の話が聞けたので、話そうと思っていたのでした」
 故郷というのは奥州のことだろう。
「伊達輝宗殿が亡くなったそうです」
 伊達……輝宗? ……政宗のお父さん?
「なんでも、畠山殿に人質になった伊達殿が息子に自分を撃てと命じたとも、伊達政宗殿が人質に取られるぐらいならと、撃ち殺したとも伝え聞いてますな」
「撃ち殺した……?」
「畠山殿がそんな強攻に及んだのも、実は政宗殿が父親を邪魔に思って後ろで手ぐすね引いていた、なんてことを聞きましたけれど」
 雪斎が意味ありげににやり、と笑った。
 そんなことは初耳だ。そもそもなんで、畠山氏が伊達の館に来ていたのだろう。あの政宗のことだから、檜原口での戦の雪辱を果たすためにまた、なにかやったんだろうか。血の気の多い方だから、雪が降る中もう一度侵攻なんて、やってそうな気がする。
 ……でも、伊達輝宗が亡くなる事象がわからない。
「おや、まったく聞き及んでいらっしゃらないみたいですね」
 したり顔をしながら言う雪斎は、まさに黒衣の宰相というに相応しい威厳があった。
「故郷が、奥州なだけでございますから」
 私もできるだけ当惑した表情がでてこないように、にこりととっておきの笑顔をしてみせたつもりだ。きっと、頬が引きつっていて笑うのには失敗していると思うけれど。
 この古狸、一度ぎゃふん、と言わせてやりたいと思う。
「政宗殿はお若い……。故郷を奪われたもののお気持ちがわからないとみえる。政宗殿は、畠山殿の領地を我が物顔で蹂躙し、自分の領土としたのですが……お父君の輝宗殿が政宗殿を諌め畠山殿に領地の安堵をしたようです。そのお礼に、輝宗殿を訪ねた畠山殿が凶行に及んでしまったようですね」
 つまり、元凶は政宗というわけか。輝宗様はあの政宗を育てたぐらいだから、武士の誇りを持ち合わせている人だったのだろう。もし、自分が伊達家の足枷になってしまったとしたら、自分を殺せ、ぐらいのことは言ってしまう人だと推察できる。
 仮に人質にとられた時点で、話ができないようにされていたら……救い出せないなら政宗は、ためらいながらも、父親ごと畠山殿を殺すだろう。彼は、それが最善だと、伊達家の跡継ぎとして当たり前だと教えられたに違いない。
「雪斎様なら、政宗様のお立場にあらせられたら、どのようにされます?」
 私なら……そうだな……たとえ畠山の領地に侵攻したとしても、ある程度の領地は安堵し、残りを自分の譜代の家臣たちに分け与えるだろう。攻められた方は、「戦に負けちゃったし、ちょっと領地が狭くなるのは仕方ないか」とか思ってくれるだろうし、勝った方は「ちょっとだけ褒美がもらえた」とか思って……丸く収まらないだろうか。
「……戦は、戦う前に勝利すべきです。まず畠山殿の家臣を数名、こちらに内通させ畠山殿を足元から揺さぶりかけます。大軍を持って畠山殿の居城である二本松城を取り囲み、降伏を促します。畠山殿の領地の中で豊かな土地をわが領土とし、残りは畠山殿に安堵しましょう……その代わり、畠山殿は隠居です。嫡男のほうが若輩者ゆえ、御しやすいでしょうからね」
 こ……この人に「ぎゃふん」なんて言わせるなんて無理な気がしてきた……!
 徹底した勝利を掴むための作戦の立て方、しれっとすぐに答えられるあたりが事前に自分で考えておいた答えであると、わかる。背筋がぞっとした……だって、この人は本当に、戦う前に勝利を収め、しかも自分の痛手は極力少ない方法を言ってのけるのだから。
 ああ……そして……。
 絶望的な差がある。私と、この黒衣の宰相雪斎との。
 私は、まだ考えが甘いのだ。戦に勝てば畠山氏が自分たちの味方になる、言うことを聞いてくれるとどことなく思っていた。そんなのは勝利者の勝手な言い分であって、敗者は勝利者に取って代わろうとするだろう。祖国を取り返すために。だけれど、雪斎は違う。戦わずして勝利し、自分たちの言うことの聞きやすい経験不足の若者を近臣に引き立てることによって、敗者の屈辱を紛らわし、且つ、自分たちが御しやすいようにしむけるのだ。
 年齢差であるとか、生きていた時代の差であるとかそんなもので埋められない、才能の差を感じた。私は、なんて浅はかなのだろう。私の知恵では、政宗を天下人になってもらう手助けすらできないのかもしれない。
「畠山殿に美しい姫でもおれば、婚姻という手立てもあります。場合によりますな」
 突然、雪斎が苦しそうに咳をした。最近、雪斎はよく咳をする。風邪でも引いたのか、つらそうで、悪い咳をしている。私がいた時代なら、風邪なんてすぐに治せるのだろうけれど、この時代だと死につながる恐ろしい病気だ。
 そういえば、私のいた時代でも風邪の特効薬というのはなくて、風邪の症状を和らげる薬を服用し、あとは人間の免疫機構と栄養とで風邪を治しているのだと聞いたことがある。
「雪斎様、お加減が最近よろしくありませんね。もう、お休みになられますか?」
「歳は、とりたくないものですね……。また、後日楽しい話でも伺いましょう」
 雪斎は人を呼んで、部屋を片付けさせるようだ。ゆっくりと立ち上がった姿が、なぜか弱々しく見えて、私は気がつけば言葉を口の端にのせていた。
「大根を刻み、糖蜜につけたものを白湯で溶いて飲むとよろしゅうございます」
「ほう、私に味方をするつもりですか?」
「病の人につけこむほど、恥知らずではございません。……白湯だけでなく葛も混ぜといて飲んでもよろしいかと思います。それでは、お大事になされませ」
 私は結局、甘いんだろうか。


 今日は、甲斐の武田の使者が義元様の屋敷に来るとかで、朝から出迎えの準備をしている。義元様は、その使者が誰だか知っているようで、そんなに持て成さなくてもいいと少々不機嫌だ。私は、その使者の屋敷の案内をおおせつかって、控え室で待機していた武田の使者を迎えに行った。廊下に膝を着いて、障子を閉めたまま中に呼びかける。低くて渋い声が返ってきて、私はそっと障子を開けた。
 一瞬、奥州の空翔る竜その人かと思った。片目は眼帯をしていて、気の強そうに引き締まった口元をしていたからだ。よくよく見れば、あの人とは年齢が一回りほど違いそうだし、あの人は服装にも相当凝っていた。使者の方は、いわゆるこの時代の平均的な着物をそつなく着ている。
 たかが、眼帯というだけで胸が高鳴ったのが口惜しい。
「私は、侍女のと申します。お館に滞在中は、なんなりと私にお申し付けくださいませ」
「某は、山本勘助だ。、よろしくな」
 正面から顔を見て、あの人とは眼帯をつけている位置が左右逆なのだと知った。眼帯には、模様が彫られていて、意外とおしゃれさんだ。有名な武田信玄の使者だというから、もっとえばった人かと思っていたけれど、話しやすそうな雰囲気だ。
「お館様がお待ちです。こちらに」
 お館様とは、もちろん今川義元のことだ。最初は「義元様」と呼んでいたのだが、そのことについて、今川義元と雪斎にからかわれたので即座に「お館様」と呼ぶようにしている。どんなことを言われたか、思い出すのも恥ずかしい。
 以前、『義元様』と呼びかけたところ、たちの悪いにやり、とした微笑を扇の下で隠しながら今川義元が返事をしたのだ。その場にいた雪斎もなんだかたくらんでいる笑顔をしていたので、おかしいとは思ったのだが、そのまま用件を伝えた。部屋から出ようとしたところ、義元に呼び止められたので、振り返って返事をすると、彼はこういった。
は、わしの側女になりたいのか?』
『は?』
 なまじっか、カッコイイだけにちょっと胸がときめく。
『そういえば、さきほどから誘っているようなそぶりが多いですな』
 雪斎も雪斎でしれっと、そんなことを言うものだから余計に心臓に悪い。
『ちょっ! 雪斎様、からかうのもいい加減にしてくださいませ!』
 本当に、坊さんの発言か?! これが
『わしに抱かれたい女どもは名前を呼ぶ。だが、お前では物足りぬ。以後はきちんとお館様と呼べ』
 も、物足りないだなんて失礼な! ……でも、敬称できちんと呼ばないのは、この時代では礼儀知らずというより、殺されても仕方がない常識なので、私は「はい、お館様」と答えた。
 義元は、すぐに席をはずしたのだがそれを雪斎は苦笑しながら見送った。
『お館様は、ああして名前を呼んでくるよからぬ思惑を持った女を遠ざけておられるのだ。もともと、あのお方は、奥方に一途であらされる。他の女もより取りみどりのご身分でありながら、側女を置くこともなければ、側室もいない。……女にとっては、理想の男ではないかな?』
 意外だ。
 私は、ぽかんと義元がさっていった障子を見返した。ちょっと高慢なところのある男が、奥さん一筋なのか。この時代だから、政略結婚というやつらしいが、義元は奥方を大変気に入っておしどり夫婦なのだそうだ。色仕掛けをしてくるほかの女は一切目に入らない……らしい。その奥方、というのはあの有名な武田信玄の姉なんだそうだ。
 武田信玄というと、私は歴史の教科書で見た赤いもさもさを被った、がっしりとした体型のいかつい武将、というイメージしかない。その人のお姉さん……想像もつかないな。
殿は、義元様にお仕えして長いのか?」
 山本勘助は、足が悪いようで若干引きずるように私の後ろを歩いている。
「いえ、雪斎様のところに出入りしているうちに、お館様からもお声をかけていただくようになりました」
「ほう、通りで某が以前訪れたときに、そなたがおらなかったわけだ」
 私は、義元の部屋の前で正座をして廊下に両手を置いて頭をたれた。そして、障子越しに呼びかける。
「お館様、山本勘助殿をお連れいたしました」
「入れ」
 返事は、めちゃくちゃ期限が悪そうな声だ。山本勘助は全然気にした風もなく、部屋に入っていった。中には、主の席に義元。その両脇を固めるかのように雪斎と義元の母親である寿桂尼が座っている。
 私は、この部屋で話されることを聞くことは許されないので、そのまま一礼して廊下を歩いて自分のいつもいる部屋に戻っていった。



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