弦月の向こうに

芽生えの花

 私の顔のすぐ横にある政宗の顔から、クスクスと忍び笑いが聞こえた。
「なに、赤くなってんだよ。初心だな」
「だ、だって、こんな風にされたことないし……!」
 こんなに優しくて、切ない腕の中に閉じ込められたのは初めてだ。
「お前、意外とcuteなところがあるんだな、ちゃん?」
 依然として私を抱きしめたまま、政宗は至近距離で私を見下ろしてにやにや笑っている。恋に悩んでるくせに、こういうのに免疫があるってどういうこと?!
「それに、いい匂い……」
 まるで犬みたいに、私の髪の毛や首筋の匂いをかいでいる。くすぐったいし、やめてほしい。
 それに、恥ずかしい……。
「絹のような肌だな」
 頭に回していた手を、私の頬に持ってきてなで上げる。節くれだっているけれど、少し体温の低い指の長い手が私の頬を優しくなでるのが、心地良い。思わず目をつぶって、されるがままにしていると、政宗の手の動きが止まった。私がゆっくりと目を開けると、やけに真剣な表情をした政宗と視線がぶつかった。政宗は、何か決意したかのような表情で私に顔を近づけてきて、気が付いたら私の唇に暖かいものが触れていた。目の前には、瞳を閉じた政宗の顔がある。


 もしかして……キス、してる


 ちゅ、と政宗に唇を吸われて形を確かめるかのように、舌で下唇を舐められた。その感覚にぞわぞわと肌が粟立つのを感じた。上唇と下唇の隙間を舌でなぞられて、思わず唇を開けるとにゅるりとしたものが口の中に入っていく。

 し……舌が入ってる……

 政宗の舌は、私の口内の形を確かめるように、歯列をなぞりあげ前歯の裏を舐めて上あごを舐める。どうしよう、だんだんぼうっとしてきた。次に、私の舌が彼の舌に触れたとたん、絡め取られてちゅっと吸われた。
 私は、ここではっと我に返って両手を政宗の肩にかけて力いっぱい押して、彼から顔を離した。そのとき、自分の口から政宗の舌が出ていく感覚に全身に震えが走った。唇と唇の間に銀色の橋が架かって思わず私は口元を隠した。
「と、殿……!」
 私は羞恥からか、怒りからか顔が真っ赤になっているだろう。心臓が早くてのどから飛び出してきそうだ。どうしよう、冷静に考えられない。とにかく、なんでそんなことをされなきゃいけないのか私には、わからない。なんだっていうの!
 政宗は、いまさら右手の人差し指で自分の唇をゆっくり撫で上げて、左目を切なそうに光らせてため息とともに言葉を吐き出した。


にだったら、素直にできるのにな」


 ああっ
 そういうこと……!
 愛姫を抱きしめて、キスしたいができないから代わりに、私にしたのね。
 私が『愛姫様にしたいことはないか?』と聞いたから。そう考えたとたん、鼻の奥が急に熱くなる。
 ああ、私、泣きそうだ……!
 とっさに顔を下げて、私は必死に言葉を捜した。彼は、ただ、好きな女の子に想いが伝えられなくて、不器用なだけなのだ。そう自分に言い聞かせても、体の中心から湧き上がるような、激情が止められない。彼にかけられる言葉なんて、ない。
「御前、失礼します!」
 私にできたのは、泣きそうなのを気が付かれない様に俯いたまま、主の前から去ることを告げることだけだった。私はそこから逃げ去るように、走り去った。政宗が私の名前を口にしたようだったが、そんなこと知ったことではない。
 政宗の部屋を後にした、と思ったとたん気が抜けて目から涙がこぼれて来た。このまま、家に帰ってしまおうか。私は、頬に流れている涙を拭い去りながら、俯いたまま廊下を歩いた。だから、私は曲がり角で向かい側から来た誰かとぶつかってしまった。慌てて顔をあげて、謝罪しようとすると、驚いたような表情をした成実と視線がぶつかった。
、泣いていたの?」
「い、いえ……これは……」
 私は普通にごまかすつもりだったのだけれど、さっきまで動揺していたために、ちゃんといいわけがでてこない。思った以上に掠れた声だったのに私は驚いた。
「殿と……何か?」
「あの、違います……その」
「言わないと、君のその姿、殿のお手が付きましたと言っているようなものだよ」
 成実の視線が私の髪、着物の合わせ目、着物の裾へと移動した。
「髪は僅かに乱れ、小袖の合わせ目がゆるくて、裾が乱れている……手が付いて慌ててでてきたと、見聞してるよ」
 私は慌てて髪の毛をなでつけ、小袖の合わせをきつくした。
「おいで、俺の部屋こっちだから。そんな顔で城内は歩き回れないよ」
 私は成実にされるがまま、彼の後についていった。


 案内された部屋は、政宗の部屋よりすこしだけ小さかった。普段はここで執務をしているのだという。簡素な部屋で文机がひとつだけあるだけだった。
 成実は、上座に座ると私にも手で座るように促した。向かい合うようにして私は座る。
「さて、何があったか聞かせてくれないかな」
 私は、ぽつり、ぽつりと話し始めた。政宗に呼ばれたこと、小姓の案内で通されたのは政宗の私室で、愛姫の好みのものや、ほしいものを尋ねられたことを順に答えた。
「それで、どうしてそうなるのかな……梵は、ああ見えて身持ちは固い。総領だからおかしな女に捕まるわけにはいかないからな。ああして、早いうちから正室が決められる」
 女になれているように見えて、実は不器用なのはそういうわけだったのか……。それじゃあ、目の前に愛姫という極上のご馳走をぶら下げられて、ほかの女に目も行かないのは分かる気がする。愛姫を手に入れたくて、さぞ、ヤキモキしているのだろう。
「私が、『愛姫に、他にしたいことはございませんか?』と伺ったところ、突然……」
「手をつけられた、と?」
 私が言い淀んでいたことを、あっさりと成実は言った。手をつけられる、というのは語弊がありそうだから私は慌てて、訂正した。
「違います! ……抱きしめられて……口を……」
「吸われた?」
 はい、と私は消え入りそうな声で言った。大体、この時代はキスのことを接吻とも言わない「口吸い」とかいうから余計に恥ずかしさが増す。そりゃ、確かに口を吸ってますけど……!!
「『にだったら、素直になれる』とかおっしゃって、……私は、愛姫様の身代わりに」
「それで、慌ててでてきたのか」
 私は、成実の視線に居たたまれなくなって、顔をそらした。成実は、「あの梵がねぇ……」と腕を組んで呆れ顔をしている。
「俺も、殿はを愛姫殿の身代わりにしたんだと思う……。今後、はどうするんだ?」
「どうするって……」
「何もないとはいえ、殿は諦めないだろう。下世話なことを言えば、愛姫殿の侍女だったのだから、身持ちも悪くない。殿が慰みに手を出す相手と判断してもおかしくはない。殿は、今後何度でも、を部屋に呼ぶと思うよ」
「でも、殿は、むやみやたらと女子に手を出す方ではないと……!」
 そうだ、小さい頃から政宗を知っている喜多が、そういってたじゃないか……!
「今まではね……でも、殿はだったら良いと思って手を出したんだろ?」
「う……」
「たとえ、殿がを見ていないで、愛情を持っていなかったとしても、は立派な側室ってわけだ」
 そうだ、確かに……。私が愛姫様のかわりで、私のことが好きじゃなくても、相手をしていれば側室にさせられるだろう。でも、愛姫様と仲が深くなれば私は用なしなんではないだろうか。そうすれば、側室というよりは、一夜の相手……むしろ、側女? 体の良い欲求不満の捌け口?
「側室になりたくなければ?」
は、殿の側室になりたくないの?」
 信じられないなぁ、と言った表情で、成実が私をじっと見ている。政宗は、伊達家の総領だし、若くて容姿も良い、となれば娘を側室にして、縁故続きにしたいという侍たちも多い。とっておきの物件をみすみす、手放すのかと成実は言った。
「私には、守らなければならない家もありません。愛姫様への忠節だけが私の全てです。愛姫様の旦那様となる方の側室となり、愛姫様を悲しませることはできません」
 成実はまた、私をじっと見て値踏みをしているかのようだ。
「殿も、……つらい立場なんだよ」
 成実が珍しく眉を寄せて、つぶやいた。いつも明朗快活に話すので、こういう一呼吸飲み込んだ話し方はあまりしない。
「見ていればわかるだろ? 殿は、愛姫を見ようと努力しているが、愛姫はすでに違う奴が心に住んでいる」
「そんなにあからさまですか?」
 愛姫は極力自分の気持ちが表に出てこないように、自制していた。気が付くのは、本当に一握りだと思う。でも、こういう機微には疎そうな成実が気が付いてるとなると、城内には知れ渡っているということだろうか。
「気が付いたのは、俺と、殿だろうな。ちゃんも気が付いてるみたいだから、三人」
「なぜ、気が付いたのかお聞きしても?」
「戦から帰ってきたとき、小十郎が怪我をしていた。愛姫殿は蒼白な顔をして、小十郎を見やった。ちょうど、殿も負傷していたから周囲の奴らは、殿が心配でしかたがないんだ、と揶揄をしていたが、俺と殿はそう思わなかった……愛姫殿は小十郎が心配だったんだよ」
 いとしい人がケガをした、ということで気持ちに綻びでもできてしまったのだろか。そこから、隠していた思いが少しだけ漏れでて、政宗と成実の二人が気が付いた。もしかしたら、当事者である小十郎も気が付いたのかもしれない。政宗や成実より年長者だし、こういうことにも聡そうだ。そして、小十郎は知っていても主君の奥方になる人、ということで何も気が付かないふりをし続けているのかもしれない。
 政宗は、自分の手に入る予定だった女が、赤の他人に恋焦がれていて、自分を愛してはくれないのだと知って、焦れているのかもしれない。それが欲求不満につながり、代償行為として私が選ばれた……と考えるのが道理だろう。政宗が私に一目ぼれなんて、ありえない。
 政宗の気持ちを考えれば、哀れと思いこそすれ、私は同情してこの身を政宗に捧げようとは毛頭思わない。もし私が、彼のことが好きで、彼も私のことが好きであれば、いかようにされても文句はないが……政宗は私を見ていない。
「殿のお気持ちも……わからなくはありません」
「じゃあ……」
 期待したような、成実の言葉を私はさえぎった。
「ですが、やはり、私は側室には慣れません」
 やはり、言うしかないだろう。こういうことの決定的な断り文句を。
「私は、子を孕めませんから」
 成実は、驚いたようだったけれどすぐに右目だけを細めて私に聞いた。
「それ、誰の診断?」
「え?」
殿は結婚してない。子が孕めないなんて良く分かったね?」
「薬師が……無理だと」
 そんな診断受けたわけじゃないが、一度ついてしまった嘘、最後まで押し通すしかあるまい。大体、なんでそんなに疑り深いんだ。別に、政宗に慰めるための側室が必要なら、それこそなり手なんてたくさんいるだろうに。
「ふーん……じゃ、お清じゃないんだ」
「お清……?」
 なんだその表現は。
「男を知ってるってこと」
 成実は軽く意味を答えてくれたけれど、内容はとんでもないことだった。
「なぜ、そうなるんですか……」
「何度かやってみないと、孕むかわからないだろ」
 そうだ……! この時代、内視なんてことはできないんだから状況判断ぐらいしか、その手のことは判断できないんだっけ。えーと……私は、そうなると旦那がいる、もしくは旦那がいたというようなことを言わなきゃいけないのかな……。あ、でも、男と関係してればいいのか。それなら……。
「私は、来つ寝ですから」
 来つ寝は、漂白の巫女でもあり、神の祝福として男に春を鬻ぐらしい。ある意味、神聖視されているが、人間として扱われていないことには変わらない。
「……そうか」
 成実は、猪突猛進タイプだとよくいわれているけれど、実は一を知れば十を知る、観察眼にすぐれ、頭の回転の早い人ではないだろうか。
「殿は、そういうことに拘らないから、どうしても逃げ切れないときには、出家すると良い」
「逃げ切れないと……思いますか?」
「伊達軍の一員なら、殿と行動を共にすることが多くなる……殿は執着すると絶対に離さないからね」
 それから、成実はため息をついて右手で頭を掻いた。
「俺としても、殿みたいなのが殿の側にいてくれたら、楽しいと思うよ」
「そうですかね?」
「満更でもない?」
「殿が私のことを好いてくれるなら、満更でもありません」
 私の答えに、成実は切なそうに笑って「そうだよなぁ」と呟いた。
 私も、つられて笑った。



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