弦月の向こうに

婚礼の夜

 ここで、「貴方が好きだ」と言えたらどんなにいいだろうか。
「……なんでも、ございません」
 貴方が好きです。
「なんでもなくて、泣けるのか?」
 政宗は私の頬に手を当てたまま、親指で涙をぬぐう。その所作でさえ私の鼓動は高鳴る。
「申し訳ございません。……御前、失礼します」
 強引に政宗の手を振り払い、私は部屋から逃げ出した。これ以上、あそこにいたら何を口にのぼらせていたのだろう。いい事も、嫌なことも全部、口から吐き出してしまいそうだった。
 少し泣いて、だいぶ落ち着いたみたいだ。ふと、不思議な予感がして私は中庭に視線を走らせた。ひっそりと闇に潜むかのように、来つ寝の葛の葉が立っていた。
「なにか、あったの?」
 私は声を潜めて葛の葉に話しかけた。
「異界との交わりに詳しい河衆の翁に話を聞いてきました……。貴女と同じように、先を見てきた人の話です。稀人と呼ばれ、先を予見し、ひとたび混乱期を越えるとひっそりと姿を消した……」
 まれに、先を見てきたかのように、未来のことを話す人物がいるという。それを「稀人」と呼び、混乱期にはたびたびそういう人たちが現れ、人々を導いているのだという。私が、その「稀人」に当たるのではないかと葛の葉は言う。
「稀人は、太平の世には現れません。ひっそりと生活をしているのか、混乱が収束すると同時に姿を消すのか、それは定かではありませんが、混乱期の収束時には強大な気の流れがあります。そこで、異界との扉をつなぎもとの世界に返れたのではないか……と河衆の翁が」
 結局、私は誰かが天下人になるのを待たないといけないのだ。
「稀人であるということを、周囲に知らしめれば人間関係の煩わしさからは、遠ざかりましょう。しかし、権力争いに巻き込まれることも……また、ありえます」
 私は、どちらを選んだらいいのだろう。思い悩むと、脳裏に政宗が愛姫との婚礼の儀式を挙げる、と言ったときのはにかむような微笑が浮かんだ。
 私は、そこに入れない。
「稀人である、とみなに告げます。葛の葉、今、京の辺りはどうなっているのかしら?」
 天下を制するには、天子を味方につける必要がある。私のいた世界では、あの戦国最強軍団を率いた武田信玄でさえ京への道のりは「遠い」と言わしめたのだ。今、京で覇権を握っているのは誰なのだろう。
「海道一の弓取り、今川義元殿が上洛に一番手が届きそうだと」
「今川……?」
 あれ? ということは、織田信長はまだ尾張で「うつけ」と言われ家臣たちからまだ、信頼を得ていなくて、徳川家康は今川氏で人質生活をしていると言うの?
 伊達政宗は「遅れてきた戦国大名」と言われているのだから、覇を手にするチャンスを逃す時期に台頭してきたはずなのに……。ここは、私のいた世界の過去ではないの?
「ご存知ありませんか? 今川氏が跡目争いで争ったときに、出家していた梅岳承芳様が兄君に勝利し、家督を継がれたのです。還俗して名を義元様、と」
 家督争いに勝った?
 私の知っている今川義元は、京へ上る途中織田信長に桶狭間にて討ち取られたのだ。歴史が苦手でも、知っている人の多い世に言う「桶狭間の戦い」だ。貴族趣味に浸りすぎて体は太り、馬にも乗れず輿を使っていたので、むざむざと殺されたのだと。
 そんな、間の抜けたことをする人が兄弟の家督争いに勝てるのだろうか? もしかして、私は鵜呑みにしてきた事実を改める必要があるのかもしれない。
 天下を取るなら、政宗にとってほしい。彼の力になるなら、彼の傍にいるしかないが……影からそっと情報を伝えることもできるだろう。今は、離れたところで彼のためにできることがしたい。
「葛の葉、私、今川義元のところに言ってみたいわ。お願いできるかしら?」
「道案内でしたら、いつでも」
「ひと段落着いたら、すぐにでるから。準備だけ頼むわ」
 二人の結婚式を見たら、出て行こう。
 二人の新婚生活を見ているのがつらいなら、そうするしかない。


 誰が流したのか知らないが、私に関する奇妙な噂が流れていた。なんでも私には、「死別した南蛮人の夫」がいて、「指輪」とやらが形見。形見の話をしていると、いまだに涙を流すほどの情が深い……と。
 誰の話だそれは。
 確かに、指輪の話をしていたら泣いてしまった……が、尾ひれがつきすぎて、否定する気にもなれない。むしろ、否定したら真実を言わなければならないので、私は噂の真偽を聞かれても黙って微笑んでいることにした。あれだ、モナ・リザのアルカイックスマイルだ。あんな感じ。相手を勝手に納得させるような微笑を浮かべているつもり。
「お暇をいただきとう存じます」
 婚礼に向けて、屋敷内がどんどん華やかになっていくある日のこと、私は政宗と相対していた。
「伊達に見切りをつけたのか?」
「違います。愛姫様もご結婚の予定ですし、私の存在は不要でしょう」
「俺はお前が必要だ」
「もともと、傷がいえるまでという愛姫様とのお約束でした。来つ寝はまた、もとの来つ寝に戻ります」
 突然、政宗は私に手を伸ばしそのまま、重力に従い私に馬乗りになった。政宗の秀麗な顔の背後には天井が見えて、私はようやく押し倒されたのだと知った。
「来つ寝というのだから、楽しませてくれるだろう?」
 政宗は、にやりと嫌な笑みを浮かべて私の首もとに顔を埋めた。私は、突然のことに声も出ない。ただ、私の体の上に政宗が乗っかっていて重い、というのと苦しいほど重くないので、加減してくれているのだな、ということ……それでも緩く、逃げられないように押さえつけられているのだということが分かっただけだ。
「このまま、お前を側室にしても良いな。婚礼前の火遊びなんて誰でもやることだろ」
 何も言葉が発することができなかった、私の口から嗚咽が漏れた。好きな政宗に触れられているのに、苦しくて、つらくて、涙が溢れる。
 政宗は、私の着物を脱がそうとしていた手を止めて、私を抱き起こし着物の乱れを直してくれた。政宗は私から視線をそらし、手を握り締め深いため息をついて呟いた。
「そんなに、亡き夫というのは忘れられないものなのか?」
 政宗も、私の噂を信じているようだ。
 私は黙っていた。私の口から嘘は言っていない、ただ、嘘だと否定していないだけだ。
「好きな人から、慈しまれるのが喜びなら、それ以外のことは苦痛にございます」
 政宗に触れられるのも、私のことを見ていてくれるなら、とわずかでも思ったから嬉しかった。でも、まるで欲望のはけ口のように扱われた、今は……苦しい。
「そんなに、好きだったのか?」
「この世界で一番……好きです」
 好きです。あなたが。
 政宗は、もう一度ため息をついて私のほうへと少しだけ視線を戻した。
「すまなかった」
 私は黙って頭を下げた。
「お前に与えた領地は、小十郎に管理させる」
 私はもう一度礼を言って、政宗の部屋から出て行った。


 政宗と愛姫の婚礼の夜になった。婚礼は通常、身内だけで行われるものであるから、私のような伊達の家臣たちは別室で饗応がある。婚礼の後、一足先に愛姫だけが閨に戻り、政宗は私たちの宴に混じりひとしきり騒いだ後に、愛姫の待つ部屋へと向かう。これが、婚礼の儀式だ
 。私は、今夜ここを出て行くつもりだ。すでに城内にいるものたちは全員、私が「稀人」であったことを知っている。どうやら、「稀人」というのは僧侶と同じく世間から話された存在であると考えられてるようで、あの不思議な噂も下火になった。
 婚礼儀式の前に、愛姫には別れを告げてきた。たぶん、もう生きてあうこともないだろう。
 みんなが楽しそうに、酒を酌み交わす中、席を立って部屋から出た。風に吹かれるまま、渡殿を歩く。夜空には弦月の月が冷たい光を放っている。
 弦月の月を見ると、政宗を思い出す。戦場で、玲瓏な光を放つ人。いつも人を困らせるような無理難題を言ってくるけれど、たまに、優しく笑ってくれるところのある人。
「こんなところでどうした?」
 私の好きな声が、背後から呼びかける。
「殿……」
「宴に出ていないから、どうしたかと思った」
「本日の主役が、このようなこところにいられては、困ります」
「お前もこい」
 私は、黙って首を振った。
「ここで、お別れでございます。殿。もう、旅立ちの時間にございます」
 政宗はわずかに瞠目して、私の頭の上に手を載せる。
「そうか、もう行くのか」
 政宗が私の髪をわさわさと撫で回す。その手が、自然に頬まで下ろされて私は、顔を上げさせられた。気がつくと政宗の顔が目の前にあって、自然と唇が重なった。
「さらばだ」
「殿もお元気で」
 政宗は私の頬から手を離しゆっくりときびすを返して、渡殿を歩いていった。離れていく腕のぬくもりが諦め切れなくて、思わず追いすがりそうになるのを、叱咤しながら私は米沢城を後にした。



ひとこと

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