……今日は、満月だっ
は満月が近づくにつれて気分が高揚する。それはの『病』に密接にかかわることだったが、はそれと気がつかれないように細心の注意を払っていた。下手に病気だと知れると腫れ物を触るかのように扱われるのが嫌だったからである。だけれど、今宵は満月ということもあってか、は温和しく部屋で睡眠をとることができず、同室のリリーに内緒で窓を開け、窓の桟に手と足をかけ、まるで体重が無いかのようにひらり、と寮の屋根に上った。
満月が近づくにつれて興奮するのは、最近特にひどくなってきたとは自覚している。特に、興奮すると瞳の色が黒色から血の色へと変わるので、押さえ込まないと大変である。は屋根の上を危なげなく歩き出して、立ち止まり空を見上げた。
夜空には大きな満ちたりたる月が、自分を見下ろしている。それを見上げたまま、は熱いため息を口から吐き出した。熱い渇望を外へと追い出すかのようだ。次の瞬間、の双眸は漆黒の闇の色から、毒々しい血の色へと急変した。
近くで……学校の敷地内で狼の咆哮が響き渡りは足元に広がる下の世界を見渡した。 すぐに、犬の咆哮も聞こえてますます、は訝しげに眉を寄せる。は夜風にローブをはためかせて、禁じられた森と暴れ柳を見据えるとひらり、と寮の屋根の上から飛び降りた。魔法の杖で魔法の箒を呼び寄せるでもなく、魔法のアイテムを使うでもなく黒衣のローブをコウモリの翼のようにはためかせて、空中で一回転すると重力なんて存在しないかのように、しなやかに着地した。そのまま足音を立てずに、暴れ柳のほうへと疾走する。
この状態になったときのは恐ろしく聴覚が優れている。普通の人間であれば、方向が定められないはずの動物の鳴き声だが、は躊躇せず暴れ柳のほうからだとわかった。
満月の夜に、狼だなんて学校にしては危ない環境にあるな、とは思ったのだ。ダンブルドアがそんな危ない環境を許しているとも思えず、つい気になって咆哮の聞こえたほうに向かって走った。
派手に枝を振り回している暴れ柳であったが、が近づくととたんに、その動きを止めまるで、主人に傅く下僕のように枝の動きを止めた。
「お前も……私が……私の血が怖いのね……?」
疑問系では暴れ柳に問いかけたが、それは質問というより確認だった。暴れ柳は微動だにせず、じっとを見つめているようでもあった。
「何も……いないわね」
動物だから、じっとひとつの所に留まっていないのは当然かもしれない。残念、と思いながら夜空を見上げるとそろそろ、月が隠れる時刻だ。朝が近い。
そろそろ戻ろうか、とが考えながら暴れ柳の幹によりかかっていると、足元から犬のうなり声が聞こえた。
漆黒の闇色をした犬で、警告というよりは脅しの唸り声だ。それがあまりに真剣に吼えているので、は満月の月を背にしてにやり、と笑った。逆光で表情は犬には見えていないだろうが、ただならぬ気配を感じたのか一瞬だけ、黒犬は吼えるのをやめた。だが、犬の味方をするように牡鹿が闇夜から姿を現した。後背にはねずみを乗せている。
ここからどけ、と言わんばかりの三匹の態度には好奇心に狩られたが、もうじき、朝が来る。朝が来る前に寮に戻らないとつらい目にあうのは、自分だ。
は、ローブを翻して宙へ飛び上がり風に乗った。三匹には、突然姿を消したように見えただろう。なぜか、笑いがこみ上げてきて、くすくすと笑いながら寮の屋根の上に着地し出て行ったときと同じように窓から部屋へと戻った。
もう、彼女の瞳は漆黒の闇の色に戻っている。
数時間の睡眠しかなかったが、彼女はいつもどおりに起きて服を着替えた。いかにも寝不足ですと言わんばかりの隈が目のふちを彩っていたが、リリーは何も言わなかった。ぼうっとした表情で、リリーと連れ立っては大広間に向かった。すでに席は、悪戯仕掛け人たちの隣の椅子しかあいていなかった。はリリーにわからないようにため息をついて、リリーと二人でそこに座った。
ジェームズが張り切った表情で、リリーに声をかけるがリリーはそんなジェームズに辟易しているようで、挨拶を返したきり、適当に話をあわせている。は朝食の後に飲む薬を忘れないように、スカートのポケットからピルケースを取り出すとテーブルの上においた。
それを目ざとく見つけたシリウスに簡単に奪われ、は非難がましくシリウスを見つめた。
「返して」
「薬なんか飲んでるから、陰気くせぇんだよ。まるで、スリザリンだな」
シリウスが意地悪な微笑を浮かべて、をにらみつける。この間の仕返しだ、とすぐには気がついた。だが、よりによって薬を取るだなんて……相手を貶めるならどんなことをしてもいいと思っているのだろうか。
さすがに、リーマスがシリウスのわき腹を肘で叩いて「まずいよ、それは」と窘めている。それが、俄然シリウスを意固地にさせて、自分のポケットにしまいこんだ。
「薬飲まなきゃいけない奴が、ジェームズを箒から叩き落すわけないだろ?」
飛行術の授業で、クディッチの練習試合をしたときに、ジェームズのチームとのチームが戦ったときに、スニッチを巡ってとジェームズは競っていた。すでに、ジェームズは寮代表になっていたが、は彼について必死にスニッチを追いかけていた。たまたま、ジェームズがバランスを崩して箒から落ちた瞬間、はスニッチを手にしてその試合には勝った。しかし、お互い付かず離れずの争いをしていたので、一部の生徒からはがジェームズを箒から落とした、と避難された。
もちろん、はそんなことはしていないし、ジェームズも高さの無いところから落ちたので、たいした怪我も無く、笑って彼女のことを許してくれた。
だが、今、そのことをジェームズの親友とも言うべくシリウスが口にした所為でグリフィンドールの生徒たちがひそひそ話をしながら、を睨む。そのぐらい、シリウス・ブラックの発言は影響力があるのだ。
「いい加減にして! がそんなことするわけないでしょ。ミスター・ブラック。言いがかりよ」
リリーが頬を怒りに染めて、シリウスに向かって怒鳴った。そんなこと、どこ吹く風といわんばかりにシリウスは平然とした顔でスープを飲んでいる。
「だったら、こんな薬飲まなくてもいいだろ?」
「どうして薬に拘るの?」
「……言いにくいことだけど……ジェームズに追いつけたのは、が能力を向上させる薬を飲んでいるからじゃないかって」
の疑問に、リーマスが答えた。リーマスは、「あくまで、そう思っている人がいるだけだよ」って付け足しはしたが、彼の顔には半信半疑と書かれていた。その発言に、他の寮生たちも興味を示してあちらこちらで噂をし始めた。
は、華奢な体型でとてもではないが、ジェームズに追いつけるほどの飛行術の使い手には見えない。そんな陰口がの耳に届いた。
「そんな薬じゃないの」
はパンを食べる手を止めて、もう一度シリウスに右手を差し出した。薬をかえせ、と言っているのだ。
「どんな薬かな?」
あの時は、笑って許したジェームズも、今日だけは半信半疑といった顔でに尋ねた。たった一度、一度だけスリザリンに味方しただけで、針の蓆に立たされた気分をは味あわなければならなかった。
「発作を治めるための薬」
ね、やっぱり返そうよ、とピーターはシリウスに言うが「うるさい」とシリウスに一喝され体をびくりと震わせて、口を閉じた。
「どんな発作だよ」
が発作を起こしているところなど見たこと無い、とシリウスが言った。が下唇をかみ締めて、返答に窮するとシリウスは勝ち誇ったように笑った。
「言えないってことは、この薬だって怪しいものだな。ちょうどいい、今日の飛行術もクディッチの練習試合だ。ジェームズに追いついたら、返してやるよ」
シリウスは一方的に宣言すると、ジェームズとともに大広間から出て行った。慌ててピーターがその後に続いて、リーマスが気遣わしげにを見たがすぐに彼らの後を追った。
は怒りのあまり、フォークを握る手が震えていた。
「なんなのよあの人たちっ。失礼だわ。特に、ブラック!! 自分達が注目集めないと気がすまないのかしら」
リリーが立ち去っていく彼らの背に向けて、苛立ちを抑えきれないように言った。そんな苛立ちの声はごくごく一部で、悪戯仕掛け人たちを賞賛する声のほうが大きい。彼らは眉目秀麗で、成績優秀、女の子達はほとんどが彼らの味方であった。
いまでも聞こえよがしに、が卑怯だのささやく声が聞こえる。
「、大丈夫?」
気遣わしげにリリーは、の顔を覗き込んで驚いたように息を飲み込んだ。の顔が蒼白だったのだ。
「すっごく調子悪そうよ、マダム・ポンフリーのところに行って休んだほうがいいわ」
「逃げるなんて真似、私にはできないよ」
いつも必要な分だけをマダム・ポンフリーに作ってもらっているので、錠剤のあまりをもらいに行くということはできない。寝ているぐらいなら、さっさとクディッチの試合でもして薬を取り返したいと、は思った。
いままでだって、やってこれたのだから一日ぐらい、飲まなくても平気、とは考えていたのだ。
食事が終わって、気遣わしげな声がの背後からかけられた。返事もそこそこに振り返ると、セブルスが不機嫌そうに立っている。
「どうしたの?」
「いいのか?」
セブルスは、のことを良く知っている。薬を飲まなくても平気かとわざわざ気遣ったのだろう。
「僕が作れる薬であれば、すぐにでも作るのだが……すまない」
「とっても難しい薬だから、仕方ないわ。薬は取り返すから、大丈夫」
「お前なら、ポッターなんぞに負けはすまい。不本意ながら、飛行術ではグリフィンドールのお前のチームを応援している」
「ありがと」
飛行術は、クディッチの練習試合になってから合同授業になることが多かった。今日は、スリザリンとの合同授業で、練習試合は総当たり戦だ。あのスリザリン寮生であることをなによりの誇りとしているセブルスからの思いがけない言葉に、は嬉しそうに笑った。
飛行術の授業になって、は少しだけ、マダム・ポンフリーに言って薬をつくってもらえばよかったと後悔していた。だんだん体調が悪くなってきたのだ。空には燦然と太陽が輝いているのに、は冷や汗をかいていた。しかし、薬だけでもと思っているので気力だけでジェームズのいるチームと戦うように自分を叱咤し続けた。
ジェームズとの直接対決は、誰しもがしっていることだったので必然とはシーカーになった。断ることはできない。箒にまたがり、空に駆け上がり太陽の光に少しだけ眩みながらスニッチを探した。
ジェームズも本気モードで集中してスニッチを探している。負けられない、とが気を引き締めたときに目の前を黄金の輝きが通り過ぎた。
スニッチだ!
はすぐに追いかけることはせず、ジェームズが完全にこちらに背を向けたときに、躊躇せず箒を走らせた。体を低くして空気抵抗をなるべく受けないようにしながら箒のスピードをあげた。スニッチは、地面へ急降下しているので、は垂直に近い角度で箒を走らせた。すぐにジェームズもスニッチに気がついて同じように垂直におり始める。
遠かった観客の歓声が、すぐに大きくなり間近に聞こえる。スニッチが客席の近くを飛ぶものだから、二人もそれと同じように弧を描いて飛んだ。スニッチに近づくにつれて、激しいぶつかり合いを二人は繰り返す。ジェームズより体重の軽いはぶつかり合いになると不利だったが、箒に獅噛み付いて振り落とされないようにした。最初こそ、を非難するグリフィンドール生の声がの耳に届いたが、箒のスピードをあげてジェームズに負けないように箒に乗っていることに集中すると、それらが霧散した。
音よりも、光よりも速く!
はそれだけを願い、地面すれすれを飛んでいるスニッチを追いかけた。ジェームズが箒の上に立ち上がってスケートボードに乗るようにバランスをとりながら、疾駆する。タイミングをみてスニッチに飛び掛るつもりだろう。は逆に箒と平行になるぐらいまで体を低くして音速の速さで飛んだ。ジェームズと同じように立ち上がれば、体重の軽い自分が箒の速さについていけずに倒れることはわかっていた。
平行して疾走するをジェームズは横目で見つめた。は、らんらんと双眸を深紅に輝かせていて、その瞳にジェームズは驚いた。
「君は……もしかして」
ジェームズは口にしようとした言葉を飲み込んだ。それどころではない。
とジェームズは同じタイミングで手を伸ばした。二人が箒から手を離し体も箒から離れて、ひとつの塊となって地面のうえをごろごろと転がった。やがて、それも止まると観客席は水を打ったかのように静まり返った。
先に立ち上がったのはジェームズで、大事そうに両手に何かを包んで広げた。だが、そこには何も無く、さっきまで、スニッチを掴んだ感触があったのだが……何も無いことに呆然として、ライバルであるを見下ろした。
は、ジェームズよりぼろぼろでゆっくり立ち上がると、握っていた右手を開いた。その手にはまぎれも無く黄金に輝くスニッチが握られていて、観客席が沸いた。
はスニッチを掴んだのを確認すると、とたんに荒い息をしてがくり、と膝をついた。慌てたようなジェームズの声が聞こえたが、返事をする余裕はにはない。
の顔色は、いまや蒼白で、よくない汗をかいている。立ち上がろうとして、足に力が入らずはそのまま地面に倒れ伏した。
意識を失う最後に聞いたのは、泣き出す寸前のリリーの悲鳴だった。