誰かに呼ばれた気がして、は深い闇底の水の中から顔を上げた。夢の中だ、とどこかで意識しているのがおかしかった。水面の向こうで呼んでいる誰かに返事をするには、水面まで上がるしかない。は拒絶できないその声に引かれるようにして水面へと向かった。水面から顔を出したときに、消毒薬の匂いが鼻から一気に入り込んできて覚醒したのだと自覚した。
そっと目を開けると、心配そうに自分を見つめている鳶色の髪が視界に入った。
「ルーピン……?」
かつては、名前を呼んでと言われたが疎遠になった今では、名前を呼ぶことは遠慮した。なぜ、彼が自分を心配そうに見つめているのか理解できなかった。起き上がろうとすると、リーマスがの背に手を置いて助け起こした。
が改めて周囲を見回すと、清潔そうなベッドに寝かされている自分の足元には、泣きはらしたリリーと心配そうなピーター、そしてリーマスがいる。リーマスが水の入ったゴブレットをに手渡すと、いつもの白い錠剤をの手に乗せた。
「気がついたら、飲むようにって」
はお礼を言って、錠剤を飲み込んだ。すぐに薬が効くわけではないがだいぶ、落ち着くことは確かだ。
「アレから、大変だったんだよ。朝のやり取りが先生にばれて、ジェームズとシリウスはマクゴナガル先生にものすごい剣幕で怒られてるよ」
「僕たちも怒られそうだったんだけど……エヴァンスが庇ってくれたから……ね」
リリーは、リーマスとピーターが朝食のときに薬を返すようにシリウスに訴えていたことをしっかり聞いていたのだ。
「マ……マクゴナガル先生、すごかったよね……『を殺す気ですか!』って、それは、もう……」
ピーターが憤怒の表情をしたマクゴナガルを思い出したのか、肩をすくめて震えた。その様子に、はようやく微笑んだ。
「もう、死んじゃうって思ったんだから……」
笑ったに安心したのか、リリーが泣き出した。は言葉に詰まって、ごめんとだけ呟いた。その瞬間、閉じられていた白い仕切りのカーテンが開いて、不機嫌そうなジェームズとシリウスが入ってきた。
と視線がぶつかると、二人はふいっと視線をそらすけれど、すぐに息を飲み込んでジェームズは言った。
「ごめん。本当に、君が……病気だとは思ってなかった。軽率だったよ」
「すまなかったな」
ぶっきらぼうに言うシリウスに、は目を丸くして驚いて、黙って頷いた。薬は返ってきたことだし、なにより、実力でジェームズに勝ったのだ。気分も良い。
「ただし……二度目は、覚悟したほうがいい」
許す、と言ったときとはまるで違う、狡猾な蛇のような表情をしては低い声で呟いた。そのあまりの冷淡さに、その場にいた全員が背筋にうそら寒さを感じさせる。
ジェームズは試合中に見せた、あの深紅の双眸についてに問いただそうと思っていたが、彼女の雰囲気に飲まれ、聞くことができなかった。それに、もう、の瞳は深紅ではなく、闇色に戻っていた。
「どうしたんだよ、図書室だなんて。めずらしいな。雨が降るぞ」
シリウスは、ジェームズの後姿にからかいの声をかけながら、ついていった。調べたいことがあるから、手伝えというのだ。
「……興奮すると瞳が深紅に変わる、と聞いて思い出すのは?」
「稀にいるだろ、そういう魔法使いが」
「その稀、はどういう血筋が多いかな?」
「……スリザリン……」
「気になるだろう?」
ジェームズは、闇の魔法使いの歴史書から調べ始め、シリウスは医学書から調べ始めた。以前は、悪意で持ってのことを調べていたが、今回は純粋に好奇心からのことを調べている。あの事件以来、親しく話をするようになって彼らが知ったのは、一族すべてがスリザリン寮生で、自分だけがグリフィンドールであること。ルーマニア人の血が入っているが、魔法使いとしては『純血』であること、兄弟は多いが、本妻の子供は自分だけで、あとは愛人の子供であるという複雑な家庭であることぐらいだ。
あと、病気は生まれつき……。
「思ったとおり、似たような境遇のシリウスは彼女のことが嫌いだったじゃないか。同族嫌悪かな。彼女は、スリザリンになりたかったみたいだけど」
「なんで、スリザリンなんかがいいんだよっ。あんな差別ばっかりしてるところ」
「……さあてね……悪名高いことは知っていても、彼女の一族がなにやってるかは知らないからね」
ジェームズは、手にしていた本に求めていた情報が書かれていないとわかると、本を閉じて次の本を開いた。
ある一点の記述に吸い込まれるようにして、ジェームズは文章を読み出した。
「……興奮すると、瞳は深紅に輝き相手を魅了する力を発揮する……」
ジェームズはその記述をさかのぼり、何についてかかれたことか、ラベルを確かめた。そこに書いてある単語を見て、図書室だというのにジェームズは本を思わず手から落とした。
「お、おい」
シリウスが慌ててジェームズが取り落とした本を拾い上げ、開いていたページを見て目を見張った。
そこには、吸血鬼、と書かれていた。
ジェームズが見つけた本を借り出して、急いで二人は寮の談話室へ戻った。そこでは、リーマスとピーターがチェスをしていて、幸いなことにもリリーもいなかった。二人の行方を聞いても、部屋にいるんじゃないかな、という頼りない答えが返ってくるだけだったが、めったに無いチャンスと、発見した興奮にジェームズとシリウスは自分達の仮説を小声で二人に聞かせた。
・は吸血鬼である、と。
その説を聞いて、ばかばかしいと最初に言ったのはリーマスだった。
「僕みたいな厄介者を抱えているのに、ダンブルドアがそんなことすると思う?」
「そうだよ、ここには、理性を失って夜な夜な徘徊するって書いてあるけど、そんなことはしてないと思うよ」
ピーターまでもが、反論する。
「それは、吸血鬼にかまれた奴のこと。純血の吸血鬼……彼らの神祖であるドラキュラの血筋を引いたものは、人間となんら変わらない生活をしているって書いてある」
「それに……ルーマニア人の血が入っているっていってただろ。神祖もルーマニア人だ」
「そんなこといったら、ルーマニア人は全員吸血鬼みたいじゃないか」
リーマスがムキになって反論する。ジェームズは、その態度になにか感づいたのかにやにやと笑ってリーマスを見返した。
「なんだよ、ジェームズ気持ち悪いよ」
「リーマス君、に惚れた?」
「ちょ……っな、なに言ってるんだよ! ……もし、もしだよ。がそういう人だったとして、ジェームズたちは何がしたいの? 正体暴いて退学させたいの? でも、は学校生活楽しんでるんだよ。……僕と同じで」
最後の言葉を悲しそうに呟いて、リーマスは口をつぐんだ。吸血鬼は闇の生物の中でも、特Aクラスの危険生物だ。人狼の比ではない。その人物がホグワーツにきて魔法の勉強をしているのだ。魔法学校に行けないと絶望していたリーマスと同じように、彼女も自分の生まれを呪っていたのではないだろうかとリーマスは思ったのだった。
「ジェームズだって知ってるだろ。はクディッチの寮代表にって推薦されても全部断ってるんだ。発作が起きるからって。……彼女をそっとしておいてあげようよ」
リーマスの悲痛そうな表情を見て、ジェームズもシリウスも何もいえなくなってしまった。この話題は、忙しい毎日によってすぐに忘れ去られた。次の満月が来るまで。
満月の日、は抑えきれない衝動によって再び夜のホグワーツを散策した。マダム・ポンフリーがつくる、白い錠剤は人の血を飲まなければ生きていけない自分にとっては、生命の薬だった。白い錠剤は、人の血と同じ成分と味でできている。人への吸血行爲は、それで抑えられているが狩りへの欲求は満月になると抑えがたい。今日も、狼の咆哮が聞こえて、だけれど、それがいつもの鳴き声と違う気がして、何かに突き動かされるようには暴れ柳のほうへと疾走した。
暴れ柳の根元で、うごめく四匹の獣をは見出した。狼はひどく暴れ、咆哮を繰り返している。それを抑えるように周囲を回りながら吼えているのが黒犬で、牡鹿と背に乗ったネズミが少しはなれて心配そうに、鳴いた。狼の瞳が、鋭く光り、黒い犬に飛び掛るのにさほど時間はかからなかった。すぐに、人狼だと気がついたはとっさに叫んだ。
『静まれ、人狼。主人の前ぞ』
の双眸はらんらんと、毒々しい血の色へと輝き、対照的に顔色は青白い。叫んだ口元からは、発達した犬歯が覗いた。声も、聞くものを魅了する響きと他者を圧倒する響きが交じり合っている。
人狼は、すぐにその声を聞き入れ黒い犬の上から退くと、四匹を遠巻きに見ていたの足元まで歩くと、足元に温和しく座った。
『無闇に牙を立てることは、許さん』
ちょうどそのとき、暴れ柳の枝と葉で隠されていた月が顔を出して、月光を静かに降り注いだ。声の主は、闇夜にまぎれていたが月光によってその姿を晒しだした。口元から発達した犬歯を覗かせる、女吸血鬼だった。
『落ち着いたか?』
優しい声音で、は人狼の前で膝を地面についた。そっと人狼の頭をなでるが、なぜかその人狼が震えていて、は苦笑した。
『怯えずとも、何もしない。さきほどはすまなかった。人狼が我らの眷属であったのは遠い昔のこと。とっさに叫んでしまった、許せ』
普段のからは想像できない話し方だ。
『今宵は、私も共にいよう。お前達は、このホグワーツを駆け巡るのだろう。付き合うさ』
いつもは、四匹で駆けていた道も、今日は四匹+一人、である。しかも、その一人は疾走したり、そらを飛んだりと多芸だ。やがて、空が白み始め朝日が昇る前には急いでグリフィンドール寮へと戻った。
彼女がいなくなり、リーマスを迎えるためにアニメガースを解いた彼らは無言で顔を見合わせた。今日に限って、リーマスの発作がひどく抑えきれないときに、助けてくれたのは……しかも、吸血鬼だった。
暴れ柳の根元からでてきたリーマスと共に、グリフィンドール寮へ戻ったがそれまでの間、彼らは無言だった。